開目抄 池田先生の講義2

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0186~0237 開目抄 大白蓮華より 先生の講義 第二回 主師親の三徳

01860237 開目抄 大白蓮華より 先生の講義 第二回 主師親の三徳

 

忍難と慈悲で民衆仏法開く

 

0186:01

 

本文

 

開目抄上    文永九年二月  五十一歳御作   与門下一同    於佐渡塚原
  夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり。

 

現代語訳

 

 いったい、一切衆生の尊敬すべき者が三つある。それは主人と師匠と両親である。・また習学すべき物が三つあえる。それは儒教と外道と内道たる仏教である。

 

186:100186:11

 

本文

 

  かくのごとく巧に立つといえども・いまだ過去・未来を一分もしらず玄とは黒なり幽なりかるがゆへに玄という但現在計りしれるににたり、

現代語訳


 このように巧妙に、その哲理を立てているとはいえ、まだ過去世・未来世については一分も知らず。玄とは闇黒で、さっぱり何かわからないということである。したがって、ただ現世のことのみは知っているようであるが、それも仏法のごとき実相はもちろん知るよしもない。

0187:010187:03

 

本文


  孔子が此の土に賢聖なし西方に仏図という者あり此聖人なりといゐて外典を仏法の初門となせしこれなり、礼楽等を教て内典わたらば戒定慧をしりやすからせんがため・王臣を教て尊卑をさだめ父母を教て孝の高きをしらしめ師匠を教て帰依をしらしむ

現代語訳


孔子が「この中国には賢人・聖人がおらない。西の方に仏図という者があり、これは真の聖人である」といって、外典の教えはすなわち仏教に入るための段階であるとなしたのは、この意味である。すなわち儒教においては礼楽等を教えて、後に仏教が伝来した時に、戒定慧を知りやすからしめんがため、王と臣の区別を立て、尊卑を定めて、もって主の徳をあらわし、父母を尊ぶことを教えて、もって親の徳をあらわし、師匠と弟子を明らかにして、もって師に帰依すべきことを知らしめたのである。

0187:120188:02

 

本文


  其の見の深きこと巧みなるさま儒家には.にるべくもなし、或は過去・二生・三生.乃至七生・八万劫を照見し又兼て未来・八万劫をしる、其の所説の法門の極理・或は因中有果・或は因中無果・或は因中亦有果・亦無果等云云、此れ外道の極理なり所謂善き外道は五戒・十善戒等を持つて有漏の禅定を修し上・色・無色をきわめ上界を涅槃と立て屈歩虫のごとく・せめのぼれども非想天より返つて三悪道に堕つ一人として天に留るものなし而れども天を極むる者は永くかへらずと・をもえり、各各・自師の義をうけて堅く執するゆへに或は冬寒に一日に三度・恒河に浴し或は髪をぬき或は巌に身をなげ或は身を火にあぶり或は五処をやく或は裸形或は馬を多く殺せば福をう或は草木をやき或は一切の木を礼す、此等の邪義其の数をしらず師を恭敬する事・諸天の帝釈をうやまい諸臣の皇帝を拝するがごとし、しかれども外道の法・九十五種・善悪につけて一人も生死をはなれず善師につかへては二生・三生等に悪道に堕ち悪師につかへては順次生に悪道に堕つ、外道の所詮は内道に入る即最要なり

現代語訳


 その見の深く巧みなる様は儒教の遠く及ばないところである。あるいは過去世の二生・三生乃至七生・八万劫の過去までも照見することができ、また未来八万劫を知ることができた者さえあり、その所説の法門の極理が、あるいは「因の中に有り」、あるいは「因の中に果無し」、あるいは「因の中に亦は果有り亦は果無し」等云云ということである。これが外道の極理である。
 いわゆる善き外道は五戒・十善戒等の戒律を持ち、有漏の禅定を修め、次第に修業を積んで色界の天・無色界の天をきわめ、上界を涅槃と立てて、尺取り虫のごとく一歩一歩修業し、のぼれども、非想天より、かえって三悪道に堕ちてしまい、一人として天界に留まる者がいなかった。けれども、外道を信ずる者は、その根本が邪見であるために、天界から三悪道へ堕ちたとは知らずに、天をきわめた者は長くかえらないのだと思っていた。おのおの自派の師匠の義を受けて、これに堅く執着するゆえに、あるいは寒い冬に一日に三度、恒河に浴し、あるいは髪の毛を抜き、あるいは巌に身を投げ、あるいは身を火にあぶり、あるいは手足と頭との五処を焼く。あるいは裸体になり、あるいは馬を多く殺せば幸福になれる、あるいは草木を焼き、あるいはいっさいの木を礼拝した。これらの邪義は数え切れないのである。その師を恭敬する様は諸天が帝釈を敬い、諸臣の皇帝を拝するごとくであった。
 しかれども、外道の九十五種の修業では、善につけ悪につけ、一人も煩悩。生死の根本を悟ることはできないで、善師に仕えては、その時には事がなくても、二生・三生等に悪道に堕ち、悪師に仕えては次の世で悪道に堕ちた。結局のところ、外道の所詮は、仏教に入るための経路である。

0188:060188:09

 

本文


  三には大覚世尊は此一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師、大福田等なり、外典・外道の四聖・三仙其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫・其の名は賢なりといえども実に因果を弁ざる事嬰児のごとし、彼を船として生死の大海をわたるべしや彼を橋として六道の巷こゑがたし我が大師は変易・猶を・わたり給へり況や分段の生死をや元品の無明の根本猶を・かたぶけ給へり況や見思枝葉の麤惑をや、

現代語訳


 第三に大覚世尊・釈迦仏は一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田等である。幸福になれる根本の道をしめしてくれた師匠である。儒教の師たる四人の聖人や、外道の三仙は、その名は聖人であるとはいえ、実には見思惑・塵沙惑・無明惑の一つさえも末だ絶ちきれない、迷いの凡夫であり、その名は賢人とはいえ実には因果の道理を弁えないことは赤児のごとき状態である。このような嘘の聖賢を師と仰いでも、これを船として生死の大海を渡れることがあろうか。これを橋として六道の迷いから抜け出られるであろうか、できないことである。しかし、釈迦仏は歴劫修業の菩薩行をすでに満じて、変易をさえわたらされた方である。いわんや六道凡夫の分段の生死に迷っているはずがない。元品の無明の根本をさえ断ち切られた方である。いわんや見惑・思惑の枝葉の迷いを断たれたことはいうまでもない。

 

講義

 

真の主師親と真の成仏の因果

 「開目抄」全体を貫く主題は「主師親」の三徳である。それは本抄冒頭の一節に明確に示されています。
 「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり」(0186:01)万人が尊敬すべきものとして「主の徳」「師の徳」「親の徳」という三徳を挙げられているのです。
 さらにまた、修学すべき思想・宗教として儒・外・内、すなわち儒教道教などの中国の諸教、インドの外道つまり仏教以外の諸教、そして内道の三つを挙げられている。
 これらは、要するに、当時、日本に伝えられていた世界の主要な思想のすべてを挙げられているのです。
 全世界の主要な思想・宗教を検討して、一切衆生にとって真に尊敬すべき主師親の三徳を具備する存在は誰かを明らかにしていくいことが、本抄の骨格として貫かれている大テーマとなります。
 これらの思想・宗教に説かれる神々や仏・菩薩・聖人・賢人らは、何らかの形で主師親のいずれかの徳を具えたものとして説かれており、実際に、多くの人々から尊敬されていた。しかし、大聖人がここでテーマにされているのは、主師親の三徳はすべて兼ね備えた存在は誰かということです。三徳を「具備」していてこそ、「一切衆生」に尊敬されるにふさわしい存在だからです。
 大聖人は祈禱抄で、こう言われています。
 「父母なれども賎き父母は主君の義をかねず、主君なれども父母ならざればおそろしき辺もあり、父母・主君なれども師匠なる事はなし・諸仏は又世尊にてましませば主君にては・ましませども・娑婆世界に出でさせ給はざれば師匠にあらず・又『其中衆生悉是吾子』とも名乗らせ給はず・釈迦仏独・主師親の三義をかね給へり」(父母であっても、賎しい父母は主君の義を兼ねていない。主君であっても、父母でなければ、恐ろしい思いもする。父母や主君であっても、師匠であることはない。諸仏はまた世尊であるから、主君ではあるけれども、娑婆世界に出ることはないので、師匠ではない。また「其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり」とも名乗られていない。釈迦仏独りが主師親の三義を兼ねておられる)(1305:08)
 この仰せは、諸仏のなかで釈迦仏のみが主師親の三徳を具備していることを示されていますが、これは仏教以外の諸教に範囲を広げても同じです。
 「開目抄」に述べられておるように、古代インドの中国の思想・宗教においては、創造神の裁きの神、また理想的な皇帝、さらに教えを残す聖人・賢人などに主師親の三徳があるとされてきました。しかし、いずれも三徳具備とは言えない。
 尊貴され、威厳、力など、主の徳に当たるものは具えていても、父母の慈愛のような徳が見られない場合がある。逆に、慈愛の徳があっても、尊貴さがないものがある。さらに、尊貴さや慈愛があっても、衆生を導く法を説かないで師の徳が見られないものもある。このように三徳の一分しか具えていない場合が多いのです。
 「開目抄」では儒外内の三徳を論ずるなかで、それぞれの教えがいかなる「法」を説いているか、また、その法に基づいて衆生がいかなる実践をしているかに焦点を当てて検討を進められていきます。
 三徳は、衆生との関係で表される仏・菩薩や諸尊の徳ですから、衆生に何を教え、いかなる実践を促すのかが、三徳の真正さを知るうえで非常に重要であることはいうまでもありません。
 その観点から検討すると釈尊こそが一切衆生に対して三徳を具備しているのであり、中国の儒家やインドの外道の諸尊・諸師は「因果」を知らず、真の主師親とは言えない、と結論されている。
 「大覚世尊は此一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁.大船師,大福田等なり、外典・外道の四聖・三仙其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫・其の名は賢なりといえども実に因果を弁ざる事嬰児のごとし、彼を船として生死の大海をわたるべしや彼を橋として六道の巷こゑがたし我が大師は変易・猶を・わたり給へり況や分段の生死をや元品の無明の根本猶を・かたぶけ給へり 況や見思枝葉の麤惑をや」(0188:06)
 ここで仰せの「因果」とは、人間の幸不幸を決する「三世の因果」であり、本抄ではさらに「五重の相対」を通して、真の「成仏の因果」である「本因本果」が明かされていきます。これこそ、法華経本門寿量品の文底に秘沈されている真の十界互具・一念三千なのです。
 開目抄の前半では、これまで伝えられた儒・外・内の教えのなかでは、一往、釈尊が一切の衆生に対して三徳を具備していると結論されます。そのうえで、釈尊の教えのなかでも「文底の一念三千」こそが真の成仏の法であり、末法衆生を救う大法であることを明かされています。釈尊こそが主師親の三徳を具備されているとされているのも、この真の「成仏の因果」を自ら悟り、体現し、法華経として説きあらわされたからなのです。

法華経の行者の実践に主師親が具わる

 本抄の後半では、この真の「成仏の因果」を悟り、それを末法の全民衆に開いていく大聖人の「法華経の行者」としての戦いが明かされていきます。
 大聖人は、ただお一人、法華経の文底に秘沈された成仏の大法を知られるとともに、この成仏の法を妨げる悪法が日本国に蔓延していることを知られている「日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり」(0200:09)と仰せです。しかし、その正法正義をひとたび説くや、想像を絶する末聞の嵐が吹き荒れます。「山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をますべし」(0202:02)
 そうした闘諍の時代、濁世の様相のなかで、それでも大聖人は、流罪、死罪の大難を越えて民衆救済の精神闘争を止められることはなかった。その御境涯を示されたのが、次の一節です。
 「されば日蓮法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(0202:08)
 この一節についての詳細な講義は後の機会に譲るとして、ここで結論だけを記せば釈尊以後の仏教史にあって、民衆救済の忍難と慈悲の次元において、日蓮大聖人の仏法指導者は存在しないとの大宣言であります。
 法華経の行者である大聖人に、なぜ法華経に説かれている通りに諸天善神の加護がないのか。また、なぜ迫害者たちに現罰がないのか、本抄後半は、この疑問をめぐって展開されます。この疑問は、本抄御執筆の背景の一つとして取り上げられる重要な疑難です。これは、世間から大聖人に浴びせられた中傷であると同時に、退転し、あまつさえ反逆した門下からも寄せられた。。
 大聖人は本抄で「此の疑は此の書の肝心・一期の大事」(0203:13)として、この疑難に正面から向き合い、人々の疑いを晴らしていかれた。
 そのなかで、次第に明らかになるのが、法華経で説かれる法華経の行者として弘教の振る舞いや、受ける迫害の相と、大聖人のお振る舞いとの完全なる一致です。
 特に、宝塔品第十一に説かれる菩薩との誓願の勧めと六難九易、提婆達多品第十二の凡夫成仏の奨励、そして勧持品第十三に説かれる三類の強敵による法華経の行者への大迫害。すべて大聖人こそが法華経の行者であることを証明するものとなっているのです。
 大聖人こそが、文底の大法を悟られ、それを末法の人々を救うために弘められている真の法華経の行者であられる。そのことが、大聖人のお振る舞いと法華経の経文との一致が確認されるにつれて、厳然と証明されていきます。
 法華経の経文による御自身のお振る舞いの精緻な検証が極まったとき、大聖人御自身の「民衆救済の誓願」が迸るように宣言されます。それが「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(0232:01)以下の師子吼にほかなりません。
 精神の究極の頂上に立たれて、迫害者や退転者の蠢きをはるか下方に悠然と見下ろされている。無知や不信や迷いを突き抜けた青空から降り注ぐような慈悲の陽光の御境涯が拝されます。
 本抄ではさらに、弟子たちに、民衆救済に徹する仏法の実践こそ、転重軽受・宿命転換の直道であり、一生成仏の大道であることを示されていきます。
 そして最後に、折伏の本質は「慈悲」であることが示されています。どこまでも一切衆生を思う大慈悲のゆえに悪と戦い、難を忍ばれ、法を弘めていかれるのです。この「慈悲」に即して、大聖人は御自身こそが末法の主師親三徳であることを力強く宣言されます。
 「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(0237:05)
 当時の日本国とは、法滅の国です。この日本国の諸人を救うのは、全人類の救済を可能にします。すなわち、日蓮大聖人こそが、日本国の諸人、再往は末法万年にわたる全人類の主師親の三徳具備の人本尊であれらることを宣言されている一節にほかなりません。
 このように、「開目抄」では、導入部で主師親の三徳を主示し、結論部において、法華経の行者として戦われる日蓮大聖人こそが、主師親三徳を現した方であられることを宣言されているのです。

末法下種の主師親

 以上、大聖人の主師親論として本抄の展開の大要を述べました。
 これに基づき、日蓮大聖人の主師親三徳、つまり「末法下種の主師親」について、さらに拝察していきたい。
 大聖人は成仏の種子である妙法蓮華経を悟られただけではない。末法に生きる一切衆生の異の苦、また同一苦を、御自身一人の苦として受けられながら、妙法蓮華経を受持し抜かれました。また、この大法を末法の全衆生のために身命を惜しまずに説き弘められた。この大聖人の偉大なる振る舞いに、末法衆生を啓発して成仏を可能にする「末法下種の主師親」の徳を拝することができるのです。
 まず、妙法蓮華経は宇宙根源の法です。大聖人は、その法を悟られただけでなく、大難を越えながら妙法受持を貫かれた、このお振る舞いは、大聖人の御生命が妙法蓮華経と完全に一体化されたことを証明するものであり、宇宙全体と一体化した宇宙即我の御境地を示されていると拝察できます。
 この広大にして尊貴なる御境涯は「主徳」と拝することができます。釈尊の主徳は法華経譬喩品で「三界は我が有」と表現されていますが、これにならって大聖人の主徳を表現すれば「宇宙は我が世界」と言えるではないでしょうか。
 いかなる大難があっても、師子王の心を取り出し、いささかも揺るぐことなく、請願のままに広宣流布に邁進されるお姿は、宇宙の中心に屹立する法華経の大宝塔さながらの荘厳さと威厳を拝することができます。
 次に、大聖人は御自身の御生命を事実として顕現された妙法蓮華経を、衆生のために実践化されました。
 すなわち明鏡たる御本尊と信・行の題目をもって衆生の成仏の道に導かれたことは、まさに「師徳」を現されていると拝することができます。
 そして、衆生を苦悩から救うために、末法の凡夫が己心に仏界を開くことができることを弛まず説き続けて励まされた。
 とともに、自他の内なる仏性を信じられない謗法の心を厳として戒め、謗法に引きずり込む悪縁の教えには、強く呵責された。
 そして、この謗法呵責のゆえに大難を受けられたが、それをすべて忍ばれた、これらは、すべて、大聖人の大慈悲によるのです。
 法華経譬喩品第三では「三界の中の衆生はみな我が子である」と親の徳が示されていますが、大聖人の忍難・弘教のお振る舞いに、末法衆生に我が子のごとく育まれる「親徳」を拝することができます。

凡夫成仏の「先駆」「手本」

 大聖人は、末法広宣流布の「最初の人」「先駆の人」として、一切衆生を救うために大法を弘められ、そのた闘いに自ずと主師親三徳を具えられたのであります。
 また、大聖人の先駆の戦いを、それに続く弟子の立場から言うならば、末法における凡夫成仏の「模範」であり「手本」として拝することができます。
 大聖人は「一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し」(0564:13)と言われています。なかんずく、凡夫成仏の手本は大聖人以外におられない。ゆえに私たちは大聖人を「人本尊」と拝するのです。
 この点について、牧口先生が、真理を発見して教える「聖賢」の立場と、その真理を信じて実践し価値創造する私たち「凡夫」の立場を区別されたことを思い起します。究極の真理を発見する「聖賢」は一人でよく、その他の人は真理を実践し証明することに果たすべき使命があると考えられたのです。
 すなわち次のように述べています。
 「先覚の聖賢が、吾々衆生の信用を確立せしめんがために、教えを開示された過程と、それを信じて導かれ、最大幸福の生活に精進せんとする吾々凡夫の生活過程とは、全く反対であるべきものである」。
 すなわち“聖賢が出て、万人が信じ実践する根本法を確立した後は、私たち凡夫はその結論を実践し結果を体得してから、その法理を理解すればよい”と言われているのであります。それにもかかわらず、聖賢の教えを伝承する者が、聖賢が結論に至る過程まで体験することを民衆に要求するのは「大なる錯誤」、「道草を喰ふ無益の浪費」であるとし、真理の価値の混同を厳しく批判されています。
 自他ともの幸福の実現こそが人間の最高の目的であると考える牧口先生にとっては、現実に苦悩を除き、幸福をもたらすことが目的であり、そのための手段にすぎなかった。
 さらにいえば、この実践の「規範」としては、凡夫、普通の人の方が望ましいと考えられていたのです。
 つまり「最高の具体的規範となる目標」はあっても、あまりにも「完全円満」な存在であれば、見習う人にとっては「崇拝するが及ばぬものとして近付き得ぬ目的」である。むしろ「最低級なる姿」すなわち凡夫の姿のままで「下種的利益」をなす人こそが「最大無上の人格」であるとされているのです。
 現実に苦悩にまみれて生きる人間にとって模範たりえる人こそ、最高に尊いのです。
 日蓮大聖人は、苦悩の渦巻く時代に一庶民として誕生され、現実に生きる人間に仏界を涌現させるという人間主義の実践を貫かれた。
 それ故に種々の難にあわれ、法華経を身読してこの教説を証明し、人間のもつ偉大な可能性をその身の上に示し顕してくださった。
 牧口先生はその点について「それが日蓮大聖人の出現によって地上に関係づけられ、しかもその御一生の法難などによって、一々因果の法則が証明されたとしたならば、理想だけの法華経が吾々の生活に現実に生きたことではないか」とのべています。さらに「これは単に日蓮大聖人御一人に限ったことでなく、仰せの通り、何人にでも妥当するものであることは、吾れ人の信行するものゝ容易に証明される所である」とし、忍難弘通された日蓮大聖人こそが私たちの模範と仰ぐべき末法の御本仏であることを訴えられております。
 以上、牧口先生の卓越した洞察を見てきましたが、牧口先生が徹底して、信じ実践する者の側に立った信仰観をもっておられていたことが窺えます。ここには、人間に平等な尊厳を見る「人間主義」の精神が示されていると言えます。

宗教観の転換

 最後に、大聖人の「主師親」観に拝することのできる「宗教観の転換」について述べておきたい。
 大聖人は「諸法実相抄」で仰せです。
 「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」(1358:13)( 凡夫は体の三身にして本仏である。仏は用の三身であって迹仏である。したがって、釈迦仏が我ら衆生のために主師親の三徳をそなえられていると思っていたのであろうが、そうではなくかえって仏に三徳をこうむらせている凡夫なのである)
 旧来の神仏の考え方から言うと、釈迦仏が衆生のために主師親の三徳を具えた偉い仏かと思っていたのに、実は、そうではない。衆生が仏性をもち、仏の生命を現す可能性を具えているからこそ、釈迦仏は衆生の主師親としての徳を発揮しうるのであり、それゆえ衆生が釈迦仏に三徳を与えているのであると言われているのです。
 ここでは、主師親三徳の考え方、そして、宗教のあり方について、「革命的な転換」がなされています。旧来の考え方で言えば、主君は民衆を支配し、従える存在です。師匠は、弟子を導き、鍛える存在です。親は、子を産み、子に敬える存在です。このような関係だけで見ると、主・師・親は権威ある存在であり、そこから仏を主師親になぞらえても権威主義的な宗教しか生まれません。
 しかし、主君は民衆を幸せにしてこそ主君であり、師匠は弟子を一人前に成長させてこそ師匠であり、親は子を立派に育ててこそ親です。このような観点で主師親を見れば、主君は民衆が幸せになる可能性を持っているからこそ師匠としての徳を具えることができるのであり、親は子が一人前に育つ可能性を持っているからこそ親としての役割を果たせるのです。
 宗教も同じです。衆生が成仏できる可能性を持っているからこそ、仏は主師親の三徳を具えることができるのです。
 この大聖人の仰せには、神や仏に服従し、僧侶に拝んでもらう「権威主義の宗教」から、民衆が幸せになるための「人間主義の宗教」への転換が示されているのです。http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1998779.html